妊婦のキモチ

とうとう、妊娠8か月目に突入してしまいました。つい先週くらいまでは、結構動き回れていたのですが、いよいよ「か弱き存在」になりつつあります(笑)
さて、今回、人生で初めて「妊娠」なる体験をした訳ですが、つくづく私にとっては心身ともに革命的でセクシーな経験でした。突然、ある時点から、体に劇的な変化が訪れ、自分の体は自分以外の何かに支配されているかのようになり、「休め〜」とか「XXを食べろ〜」とか、勝手に誰かに指令がだされている状態。もう、そうなると「気合い」などで乗り切れるようなものではなく、抗えない。体の発する声に従うしかありません。そんな自分の体とのやり取りの中で、自分は「生き物」であり、次の世代に命を繋ぐ使命を負わされた「女」なのだと思い知らされたのでした。もう「自我なんて捨て置け、お前の体は次の命の為に存在するだけなんだ」と言われている感じです。


世の中には女性であることをフル活用して、前面に押し出して生きているような人達もいますが、思えば、私はあまり自分の性別を意識しないで生きてきたように思います。いや、あるいは深層心理の部分で、それを避けていたと言うか。日本のような社会で、それを強く意識して生きていくと、簡単に発想や行動に制約が生じてしまう、それが嫌だったのだと思います。それが今回、有無を言わせず、「女」な自分を、しかも、未来に命を繋ぐという、わくわくしちゃうような役割で思い知らされたことは、なんだか平均台の上を片足で立っているような危うさから、地面に両足がついたような心地よさを感じる出来事でした。人には自我の充足も生物としての自覚もどちらも必要なようです。厄介ですね〜。


昔読んだ村上春樹の短編で三十半ば過ぎの男がプールで泳ぎながら、ターンをする瞬間に自分の人生も折り返し地点に来たのだと思うシーンがあったけれど、周りに「育まれる存在」から「育む存在」に役割が変わったとき、私もいずれ死に向かって生きる自分を思いました。結局、命ってバトンリレーみたいなもので、「前の世代から引き継いだ命のバトンを、次の世代に引き継ぐ」それだけが生物に課せられた役割なのかもしれません。私が直接見ることのできない未来を見ることのできる次の世代に、どうやって上手にバトンを引き継ぐか、その未来に何が出来るのか。。。いろいろ考えちゃいました。


予想外の「できちゃったけど駐在」で、周囲には大変心配を掛けてしまいましたが、体の声に注意深く耳を傾けながら、欧州でやり遂げたかった仕事や会社人生で最も多い業務量と向き合う日々は、なかなかストイックなゲームみたいで面白かったです。


そんな日々も、あと一週間で終わり。昨日、過保護大魔神の夫が迎えに来ました。来月からは「普通の妊婦に戻ります」(笑)