初めに言葉ありき

初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言葉に命があった。そして、この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。(新約聖書 ヨハネによる福音書 第一章)

早いもので娘も満6ヶ月を迎えた。赤ちゃんは生まれてくるまでにお腹の中で単細胞から、エラ呼吸の魚や両生類を経て、肺呼吸の哺乳類へと、たった10ヶ月で、まるで人類の歴史をたどるみたいに成長すると聞いて、妊娠中、なんて神秘的でドラマチックなんだろうと思ったものだ。でも、生まれた後の6ヶ月の変化も負けていなかったように思う。

横になって眠るだけの状態から、そっと手を伸ばせるようになり、目でモノが追えるようになり、微笑が声を出しての笑いに変わり、寝返りが打てるようになり、自分の名前が分かるようになり、、、誰も教えないのに、魔法が掛かったように一つ一つ獲得していく不思議。そして、気がつけば、まだ完成された言葉としては発せられないけれど、娘の中に彼女なりの意思や思考の原型みたいなものを感じるようになった。彼女の中に生まれた愛しい幼いロゴス。哺乳類の大きな区分から抜け、人間としての世界が始まったようで、光を見る思いだった。

そんな娘の様子から、ヨハネによる福音書第一章一節「初めに言葉ありき」の句をふと、思い出した。高校時代、朝の礼拝で頻繁に取り上げられた聖句だ。ある時は隣の席の子の恋愛話を聞かされながら、また、ある時には一夜漬けのテスト勉強の復習をこっそりしながら、不真面目に聞いた聖句でも案外ひょんな事で思い出すものだ(笑)。この句での「言葉」とは、当時の翻訳の際に無理に当てはめたもので、たしか正確にはギリシャ語の「ロゴス」のことだった筈。

私が娘の中に見たように、聖書の書かれた昔から、ロゴスの獲得は神秘であり、(人としての)世界の始まりだったのだろうか。生きることや死ぬことの神秘から、人は神様を感じてきたのかな。娘を見ていると色んなことに気付かされる。

なにはともあれ、ようやく6ヶ月。幼いロゴスがどうか健やかに育ちますように!